ようこそ、いらっしゃいませ。天神様のページへ。
北陸は年末になると『天神様』といって菅原道真公の掛軸や木彫を床の間や部屋に飾る風習があります。私は販売経験4年ぐらいの時に知識が無ければ販売もできないと思い、あれこれ15年かけて新聞くり抜き情報や本、天満宮、民俗会館などで 道真公の歴史を知りました。
・菅原道真公は富山県や北陸に来られた事があるのか?
・各地の天満宮と道真公の関係は
・天神様の風習はいつから存在するのか
・男の子が生まれるとなぜ天神様なのか?
所々の地域で天神様の信仰がこんなに強いのか未だにわかりません。疑問がたくさんありますが、このページでは、まず生い立ちから調べていく事にします。
調べによると、845年の6月25日生まれで京都の上京区の菅原院天満宮という所で是善(父)の子として誕生されました。(下図の赤色の位置)
下図の Aポイントが京都御所。道挟んで真ん前がお父さん(是善さん)の屋敷である(赤ポイント)京都の中心部に位置します。 青色は北野天満宮。 黄色は京都駅。
ちなみにAポイントの京都御所の場所には、後で説明する『清涼殿』やお雛さまのルーツでもある『紫宸殿』がありました。
話を戻し、道真さんは幼名 阿呼といい、幼い頃は病弱でお母さんが観音様にお祈りして一命をとりとめた事もありました。
ひい爺ちゃんの時代に土師姓から菅原姓を名乗り、これからの時代は朝廷にお役に立てる仕事を!と祖父から父へまた息子へと学問を託していきました。
その甲斐あって、祖父、父、二代続けての文章博士栄進。その血筋だけあり、道真公は病弱な幼少期から五年後には庭に咲いている梅を見ながら歌を詠み、そして11歳には月を見て初めて詩も詠んだそうです。
また十四歳の時には『氷、水面に封じて•••』という句を 披露され世の絶賛を受け当時の本にまで載りました 。
十五歳で元服(成人式みたい)し、父からは毎日 作詞するよう指導され、文章生を経て文章得業生をめざし 給料付きの勉学に専念し難関中の試験に挑まれる準備をする。
得業生 になると7年のうちに、策試(最高国家試験)を受けられる事ができるが 受験する事じたい名誉であるし、天皇の意向でしか受験が許可されないのですって。
道真公は文章生は18歳、文章得業生は23歳、策試をタイムリミットを4年残して26歳で合格しました。
27歳からは少内記という役に就き、天皇のそばで天皇の意思を草稿や文案にする仕事で抜群の文章力を発揮しました。
渤海国(今の中国)との外交文書をつくり、応接する大役を任されます。
※少内記=最高事務官庁(中務省)で天皇の秘書的役割の官人。まだ位はそんなに高くない。お父さんの 是善もこの任務に就いた。
30歳になると兵部少輔(兵士、兵器,兵馬司の管轄ということは防衛庁ですかね?間違っていたら ごめんなさい)を任じられ、すぐに民部少輔(戸籍・山川管理・道路管理・租税関係の国土交通省ですか。)に移ります。
道真さんは本当は式部省(たぶん今の文部省)と文章博士(詩と文章または歴史を教える)の仕事がしたかったんですよ。
民部少輔(たぶん今の国土交通省)を3年間経験したのち、ついに33歳にて念願の式部省(文部省かな?)と文章博士(文部省配属の教官か大学院の教授みたい感じ)の二つを兼任する事となった。さらに加賀権守(石川県)も任される事となる。
この平安時代の律令制度の時でさえ、四年から六年で転勤があったとは!道真公42歳にして、 讃岐権守(香川県)に任命される事に。もちろん式部省、文章博士、加賀権守 この三役は解任です。
過去にも博士の位で地方に転勤も無い事も無いが、先祖代々学者で都勤務十年40歳過ぎでこの人事は異例だそうです。
この讃岐権守(香川県)の任命もちょっと怪しい人事なようです。(ここで火曜サスペンスの挿入歌、じゃじゃ、じゃじゃ、じゃーじゃーん)学者の間でも対立関係があるようで、内緒の塾の『菅家廊下』の話で生徒が勢いよく増え、道真公支持者がこれ以上増えるのを阻止しようとした人がいるようなんです。ちなみに讃岐権守(たぶん香川県知事)の任期は四年間です。長い。
ちょうど4年が経った春に、道真公は任期を終え京都に帰ってきました。道真公が讃岐(香川県)にいた時に、阿衡(あこう)事件という出来事があって 時の権力者 藤原基経の機嫌を長文の意見書で丸く収めた功績で宇多天皇(道真公より22歳年下)から期待される事となります。めでたし。めでたし。
帰京から翌年、蔵人頭(天皇の秘書的な役職)に任ぜられ宇多天皇のそばで仕えることとなる。道真公 47歳
翌年正月 左京大夫(京都の東側の全体の長官)、式部大輔(今の文部省のトップ)に昇進。続いて左大弁 (朝廷の最高機関)参議(才能の有る者が選ばれ、大臣級と会議できる者)も兼ねた。
もうすごい勢いだから、箇条書きでいきます。
51歳 中納言
53歳 大納言 兼 右大将
55歳 右大臣 兼 右大将(左大臣は藤原時平)
これから道真公の政治手腕が試されようとした頃、突然宇多天皇の引退劇が知らされた。宇多天皇の息子の敦仁親王(醍醐天皇)を元服させ、後日すぐに譲位させた。
この時、宇多天皇30歳 敦仁親王(醍醐天皇)13歳
宇多天皇は譲位前に菅原道真、藤原時平 二人に朝政を牽引するようにと命じました。
宇多天皇が引退の際、天皇に意見や事情などを申し上げる時は時平と道真をすべて通せと命じたことにより、納言クラスの人間が職務をボイコットする事件が起きる。
道真公と同じ文章博士の三善清行は道真に手紙を送り、『来年は干支でいうと変革の年なので、引退して余生を安穏に』と忠告している。(何らかの噂を聞いて?)
藤原氏嫡流(代々世継ぎ)の藤原時平が道真の異例の出世に反発しているとの知らせ。
901年1月25日突然、天皇の命令により大宰権帥に左遷される事になった。
『政治要略』の内容によると、こう書かれている。(超簡単に)
• • • 低い身分で特に目をかけて重要なポスト(大臣)につかせてやったのに満足もせず、権力で前天皇(宇多天皇)を利用し、そのうえ 辞めさせて宇多天皇と醍醐天皇の親子の仲を悪くさせ、兄弟(醍醐天皇と弟の斉世親王)の仲も破ろうとしている • • •
二日後、道真を太宰府に送る手配が整い、厳しい命令が届いた。太宰府に行くまでの国々 に 食料や交通手段の馬などを支給してもらう事は禁ずるという。
宇多天皇(すでに引退)はこの報告を聞いて内裏に行ったが警護がまったく通してくれない。草で編んだ敷物を敷いて庭で終日座り込みを続けたが、誰も開けてくれず晩に本院(宇多天皇住まい)に帰された。
辛い思いは道真公だけではありませんでした。息子達、その仲間も播磨(兵庫県西部)駿河(静岡)飛騨(岐阜北部)能登(石川)と住居地を変えられた。しかも門弟で役所勤めの者すべて追放されるという噂が広まりました。
京都のお屋敷は思い出深い庭木は人手に渡し、一部他人に住まわせたとある。
道真公は指定されている住居からほとんど外出せず、ひたすら念仏とお経を読み、観世音寺の鐘の音を聞いたり瓦を眺め 詩心を忘れないよう生活した。近くの天拝山に登り、自分に罪のない事を文にし、高い山から7日間も天に訴えた事もあったという。
不運にも京都からいっしょにきた男の子を太宰府で亡くなってしまった。当初は京都に戻れる日を期待してましたが、次の年には希望をあきらめるようになり、その頃から体も害するようになり胃を痛め 皮膚病に悩まされました。
この時代は遠い地で死んだものは、遺骨を故郷に帰す習慣がありましたが、道真公はそれを拒否し遺言にも伝えたようです。
そして59歳で死去。(903)
いっしょに太宰府に来た門弟の味酒安行さんと数人の友が遺体を牛車で運んでいる途中で急に牛車が動かなくなったので道真さんがここに埋めてくれとの意思と考え墓所とし、門弟の味酒さんはこの場所を守り安楽寺を建てられました。(現在の太宰府天満宮)
復帰叶わず無念の死から6年が経った頃、都に衝撃が走った。なんと道真左遷の中心人物 『藤原時平』が死去となった。(909)
続いて醍醐天皇の第二皇子で藤原時平を伯父に持つ『保明親王』が享年21歳で死去。(923)
925年の春からは天然痘(水膨れになる伝染病)が大流行し『保明親王』の第一王子・慶頼王(時平の外孫)が皇太子になるが、2年後 5歳で亡くなった。(925)
最後の締めとなる出来事が有名な『清涼殿落雷事件』となる。
場所は内裏の清涼殿。雨が降らず水不足になり、雨乞いの会議をしている最中、柱に落雷直撃。近くに座っていた公卿・官人に死者が出た。(930)
藤原清貫 平希世 美努忠包 紀蔭連 安曇仁 警備者 2名が 感電死または焼死した。
落雷の惨事から、醍醐天皇は急に体調を崩し、跡目を譲位し 46歳でこの世を去った。(落命の恐怖から病状を悪化させたとも)
後任の右大臣には時平とは違い、道真に好意を持っていた時平の弟、藤原忠平が就任した。
道真公の息子達も無罪放免となり本官などに戻されました。太宰府の安楽寺にも職が置かれ、道真公の孫の平忠が任じられ安楽寺に東法華寺も建てられました。
942年 菅原道真公と生前、親しく北野の右近馬場に散歩していたという『多治比文子』という女性が天神(道真)のお告げで『右近馬場に俺を祀ってくれ!』 という神の声がするという。
同じくして近江国の七歳の男子にも、同じく神のお告げがあり 男子の父と朝日寺の最鎮といっしょに北野の社殿を建てた。(北野天満宮のはじまり)
1587年には道真公を慕って豊臣秀吉公が北野大茶湯会を行われました。
さらに豊臣秀吉公の子供の秀頼さんが北野天満宮を造営し、八棟造りの代表する建造物になりました。(写真は 北野天満宮の説明板)
太宰府の本殿前にある梅は道真公を追いかけて平安京から太宰府まで飛来して来たといわれています。これが『飛梅伝説』です。
道真さんの詩や和歌には必ずといっていいほど梅がはいってます。
また道真さんの命日の2月25日も梅の季節であり、たいていの天神像には梅の小枝を持っているらしいです。
「こち吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」
ここで菅原道真公の生い立ちコーナーは終わらせて頂き、道真公と風習の関係を探っていこうと思います。
道真公の祖父(菅原古人)の時代から息子の時代までのゆかりの地や生涯の間に道真公が立ち寄った場所などを探って風習との関係を見つけたいと思います。
祖父(菅原古人)の出身地 • • • 奈良県奈良市尼辻西町
道真公誕生の地 • • • 京都市上京区鳥丸通り
23歳の時の勤務 • • • 栃木県に相当する
初の長官(権守) • • • 石川県 市は不明
初の正官(本当の転勤) • • • 香川県坂出市府中町
右大臣時代の仕事場 • • • 京都府京都市上京区
問題の左遷先 • • • 福岡県太宰府市
『祀る』という事は道真公の子孫や門弟などが、死を悼んでするものなので、身内などの情報を調べてみました。
長男 高視 初任官 愛知県東部 ★ 〜 配流先 高知県
次男 寧茂 ?
三男 乙千代 配流先 福井県鯖江市 ★
?男 景行 配流先 静岡県 ★
?男 景鑑
五男 淳茂 配流先 兵庫県
?男 景茂 配流先 岐阜県飛騨
長女
次女 斉世親王の嫁
三女 宮廷に仕える
道真公の息子たちといっしょに左遷された人
源 善 島根県東部(出雲権守に) ★
大春日晴蔭 愛知県東部(三河掾に)★
勝 諸明 静岡県西部(遠江権掾)★
源 巌 石川県北部(能登権掾)
※掾とか権守は役職の事です。
※菅原道真公の門弟もしくは親しい間柄だったのかもしれません?
道真公を信仰する天満宮の場所(エピソードがある天満宮)
太宰府天満宮 福岡県太宰府市(安楽寺)
北野天満宮 京都府京都市上京区
菅原院天満宮 京都市上京区烏丸通(菅原氏の邸宅跡)
防府天満宮 山口県防府市松崎町
綱敷天満宮 福岡市博多区網場
(解)防府天満宮は太宰府の途中、道真公が何日間か滞在した社。綱敷天満宮は九州の袖港に上陸した時、住民達が綱(漁で使う)で道真公に敷物を作り出迎えたと言われている社。
掛軸を掛けたり、人形を飾るようになったのは いつ頃か?
空海、小野道風、我ら道真公を『入木道の三聖』と呼び
また、柿本人麻呂、山部赤人、道真公を 『和歌三神』と呼んだ。
1200年頃には、柿本人麻呂と道真公の画像を掛けて拝礼し、連歌が流行ると連歌会の席では天神や道真公の軸を掛けるようになりました。
江戸時代中期になると『寺小屋』で毎月二十五日の天神講の時、手習いの上達を祈願し道真公の掛軸を拝む事が定着したとあります。
※『寺小屋』は今でいう町の小学校で七歳で入門します。
江戸時代、有名な神社や寺院の門でおみやげとして木製、練製品の人形が多く売られ、その人気商品が天神様だったといいます。庶民の間でどれほど天神信仰が広まっていたかがわかります。
道真公は弁解もせず、静かに赴き 生涯を閉じました。彼の人柄、故事、伝承に基づいて後の学者や寺小屋の先生、連歌師、商人、一般人、武士によって、教え 伝え 悟され、いつの時代も地位や階級も関係なく当時のみなさんが伝承者となったような気がします。
道真公は『学問の神』『芸能の神』と言われてますが、みなさんが伝えたかったのはそれだったのでしょうか?
いいえ、本当は子孫に伝承したかったのは『正直の神』『正義の神』の方ではないでしょうか?道真公を調べていくうちに、こんな生意気な事を言うようになってしまいました。すいません。
いわゆる町っ子で育ったわけで、今から1150年前のお話です。
※この頃は妻問婚と言って母の権力が強く、子供は母親の家系に育てられ、成長した後に夫の家に戻されるみたいです。ですから、生まれた場所は母方の実家が生誕の地になりますが、場所はわかりませんでした。
道真さんには二人の兄がいるのですが、自分の詠んだ詩で 『•••兄弟なし』とあるのです。
どうして兄たちの存在を知らないんですかね?ん〜平安時代はよくわからん。映画の陰陽師もわからなかったが。
ひい爺ちゃんの時代家柄は天皇の墓などを管理する低い身分の役人だったそうです。
これではあかん!とひい爺ちゃんから我が子にスパルタ教育が始まり、おじいちゃん、お父さんもその期待に応え、今で言う文部省ですかね、文と歴史とを教える立場の文章博士という位につかれました。
文章生は世間では登竜門と呼ばれ、20人しか合格できず そのうちの2人だけが最高の国家試験を受けられるチャンスが与えられる。
十五歳からたくさんの人達のために、仏の教え(仏事)も知り、死なれた方の供養の願文(依頼者の願書)や朝廷に提出する書類も代筆していた。それだけ若いのに仏の教養もあるし、文章力もすごかったと言う事ですね。ためいき。
ある屋敷で開かれた弓射の競技に出場して、見事に的を連発し文武両道もアピールした。もうエリートです。好きにして!
渤海国(今の中国)からの役人が日本に来られ、衣服や持物、道具などすごく影響されてたんですね。漢文でコミュニケーション?
式部省と文章博士を兼任した頃『菅家廊下』と言い、菅原家の家が学問を習いたいという門下生で増えるいくことになったんです。屋敷の本館が住居ですが、別館を使って内緒の塾を開いていたようで『本館に続く廊下みたいな所でという意味でしょうか?』間違っていたらゴメンなさい。
加賀国(石川県)に渤海国(今の中国)の大使を応接するため加賀入り。翌年、加賀権守(石川県知事みたい感じ)にも任命されました。
これで前田利家公の梅鉢の御紋と道真公の梅鉢の謎が線で結ばれたような?やっぱり先祖なんですかねぇ?
そりゃそうでしょ。小さい時から都会っ子で勤務も京都のど真ん中。加賀権守(石川県知事みたい感じ)任命といっても、石川県に住まなくても都の京都から指示を出し、給料をもらえたのに、今回は正官で本当の転勤ですからねぇ。任命された時は精神錯乱となり声をつまらせて泣いたそうです。
阿衡(あこう)事件の権力者 藤原基経は次の天皇までも決めれる存在で宇多天皇は悪い言い方をすれば、『あやつり人形』的な立場だったんです。しかし藤原基経が他界すると、宇多天皇も本格的に政治に取り組む決意をしたような感じですかね。それも道真公とタッグを組んで。
宇多天皇は息子の敦仁親王を皇太子に立てた時もそうだが、多くの参議(朝廷関係)と相談せず道真さん一人に相談していたらしいよ。すごい信頼です。
道真公が中納言に栄進した時点で父や祖父を超える大出世になりました。(学者から大臣は異例の出世)
宇多天皇は引退ですよ!30歳で。そんなに早く引退する事もないと思うし、せっかく道真公と政治がうまくいっている時に。息子の敦仁親王(醍醐天皇)なんて13歳ですよ!政権を任せるとは、早すぎます!
ひと昔前から 大宰権帥は(福岡県知事みたし感じ)中央で失脚した大臣経験者の左遷スポットらしいです。
追いやるのが目的なので、仕事という仕事は無いと思います。張り合いがないですよ。暇だし。
潔白を主張しに行った宇多天皇(父)を時平の言うまま 門を開けなかった息子の醍醐天皇は、のちに 自分が皇太子になれたのも父と道真公が決めたことを知り、また藤原時平のデマ(道真左遷計画)を信じ、道真公の左遷を早く結論し過ぎた事をずっと悔やみ続け、毎日 道真の怨霊に長く悩まされる事となります。
中学生の年齢で正しい決断は難しい。だから譲位は早いって言うたのですよ。
宇多天皇(父)も引退して何かやりたい事でもあったんですかねぇ!
のちに出家して仏の道を歩まれたと記載してありますが • • •
• 年少(中学生ぐらい)の男女(息子、娘?)
• 門弟の味酒安行と二,三人
(見張り役の兵衛は除く)
の五、六人と道中を共にしたと言われています。なお、奥さんと長女は京都に残る事になりました。この時代は単身赴任は当たり前なのかもしれません。
見張りもいっしょだから『おにぎり』でも、もらおうもんなら、また時平にチクられるし。
死んだ男の子は絶対、疲れと栄養失調ですよ。かわいそうに。腹立ってきた。
左遷の首謀者『藤原時平』が働き盛りの年齢での死亡。醍醐天皇の子供の『保明親王』も若く死に保明親王・慶頼王は藤原時平の甥っ子と外孫ですからねえ。
二人の若年の死で京都の町では、あちらこちらで風評と噂で持ち切り。
時平と共謀して、事実無根の話を醍醐天皇にチクって道真公を追いやった源 光『源 光』が、鷹狩に出た際に、泥沼の中に転落して溺死。遺体は見つからず、これも怨霊と結びつけるしかないわ!
残された醍醐天皇は『次は自分の番だ』と思ったに違いありません。その証拠に菅原道真公を右大臣の座に戻しましたからねぇ!遅いけど。
こんな広い京都の平野なのに、よりによって醍醐天皇がいる清涼殿に落雷するとは、衝撃的な偶然です。
究極なのが、落雷で死亡した藤原清貫が、かつて藤原時平に命じられ、大宰府に左遷された菅原道真の様子を調査し、時平と醍醐天皇に報告していたという事です。そっとしとけばいいものを!ちょっとゾクゾクってしません?
歴史上、神が乗り移る対象の人は女性や子供が多いそうで次に神社の神主さんや巫女(みこ)もありえるそうです。左の『多治比文子』さんも名前からして、神に仕える巫女(みこ)ではないかと書いてありました。ぶるっ。
987年 故 道真公は『北野天満宮天神』の称が一条天皇から贈られ、一位左大臣、追贈太政大臣の位も授かりました。今でいう国民栄誉賞ものですよ。菅原家も安泰です。
まったく学歴も詩も知りませんが、ここで私の好きな詩をひとつ紹介します。左の詩ですが 詩の意味を知った時、悲しくも きれいで道真公も人柄を感じさせてくれます。
[ 東の風が吹く季節になったら、花の香りを太宰府まで届けてな!梅の花よ。 私がいなくなっても、春を忘れず咲いてくれ ]
道真公の自宅にある梅の木に対しての詩です。
ん〜。どう調べても、天神様信仰(風習)の県とかけはなれていますねぇ。石川県でも福井寄りなら脈はあるのですが、市町村が不明です。私の予想は勤務地(転勤先)などで、住民の問題や不満を解決して親しくなり、その土地で信仰が続いていると見込んでいたのですが大ハズレでした。でもまだ、次の考えがございます。
偶然かもしれませんが、天神様信仰(風習)の
地域と重なっているところがあります。その地域に★印をつけてあります。
左の人達は道真公の息子達といっしょの時期に党与(目的がいっしょの仲間)と見なされて左遷された人です。
もし、道真公の『菅家廊下』の門下生だったり、息子達と交流があれば、左の地域に伝来していても当然だと思います。実際、道真公の三男、乙千代 は福井県鯖江市に左遷され、そこには鯖江天満宮が存在します。福井の天神様の風習はここが発端かもしれません。
それとがっかりしたのですが、天満宮や天神社など道真公を祀る神社は全国で11,000社もあるそうです。それも初めから道真公を祀っていたのではなく、北野天満宮と太宰府が信仰が盛んになったので、道真を祀る神社に変わったそうなんです。
天満宮と天神様風習の地域は重なっておらず、天満宮の場所と関係無いように感じてきました。とほほ。
※空海は真言宗の開祖様
小野道風は平安時代の書道界の大御所
入木道三聖は書道の三人の神様的存在
柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人
山部赤人は奈良時代の歌人
みなさん百人一首でおなじみの歌人です。
我が道真公は24番歌に登場し、
『このたびはぬさも取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに 』です。ぜひ、百人一首した際は、いの一番で奪取して下さい。笑
私の文章も道真公の爪のあかを飲めば、誤字、脱字なく皆様に、ご理解しやすく楽しい文面でお伝えできるのですが 国語が苦手でしたのでご勘弁ください。
風習地域との関係はわからずじまいでしたが、また新しい発見がありましたら報告したいと思っております。
道真さんのご冥福を祈り、終わらせていただきます。