富山インターを出発して北陸自動車道を北上し、新潟JCTまでおよそ3時間。北陸自動車道から磐越自動車道を1時間ちょっと走ると会津若松ICを降り、121号線を北上、ラーメンで有名な喜多方を通り米沢に着きます。(富山から5時間)
初めに行った堂森善光寺に前田慶次公の堂森での生活が記されている本が500円で売っていました。無苦庵情報など満載でかなりマニアックです。一般の方は上杉神社へ行くだけでここには、観光者など一人もいませんでした。当然、私の妻と子供は機嫌悪く車で待機となりました
右の甲冑はもちろんお櫃(甲冑をしまう箱)の上に展示されていましたが、私がお櫃に座ったとしても
座高が高い!
私の身長が171なので多分175cmぐらいかな?昔の人なので足が短いと、いっしょぐらいかな!失礼。
でも今まで見た甲冑の中では大きいと感じました。
私の気になる武将の一人で戦国時代ファンにもさせてもらい、数ある武勇伝を残し活躍された後、漫画『花の慶次』でも最後、山形県米沢でのご隠居生活で幕引きとなった「前田慶次公」です。
私はすぐに、のめり込むタイプの人間で漫画の続きをどうしても自分の目で確かめたく、No,5でご紹介しました上杉神社及び上杉博物館の見学後(もしかしたら慶次公がメインだったかも。)隠居生活の拠点である米沢市堂森地区を調べに行ってきました。
まずは入念に地図まで調べ、第一目的地である堂森善光寺に到着しました。のどかな農道で車がすれ違うのにやっとの道幅でした。
駐車場に車を置き、門を通り本堂付近に「慶次の力石」というでっかい石があり慶次公は村人と力自慢をしていたそうですが、私にはとても持ち上げられる石ではありませんでした。草花が生い茂り、小山を背にした静かなお寺でした。
上の写真の阿弥陀堂のそばに前田慶次公供養塔が2m四方で、まだ新しく立派に建てられていました。
説はいろいろあるものの、1611年に死なれ、ここが埋葬された有力地だそうです。
私にとっては歴史を学ばせてもらうきっかけにもなった人なので、感謝とこれからの安眠を願ってお参りさせていただきました。
ピンクののぼりには、慶次郎利貞と明記されてますが、本人自筆の物からは「利貞」のサインしか残ってないので前田利貞が有力な正式名との事です。他には「龍砕軒不便斎」とも名乗っていましたが、強そうでもあり不便そうな名前でもあります
右の写真周辺が前田慶次公が米沢で余生を過ごした「無苦庵」という屋敷があったといわれている場所です。
無苦庵は75m四方の範囲と推測されているそうで土塁とお堀の痕跡が残っています。
右の写真の左側に木が生い茂っている場所があり、そこだけ周囲と地面の高さが違うではありませんか!あと地面に古そうな石段らしいものがありました。
上の無苦庵跡から東へ150mぐらい歩いた所に野球場があり、その奥からきれいな水が湧き出ています。慶次公の無苦庵方面に小川が流れていて桶で屋敷に運んでいたのでしょうか?
左欄明記の買った本によると平成13年前に善修会員様がこの清水をきれいに清掃活動され草薮を通行できるように草刈してくれたそうです。
写真の右側手前側が無苦庵跡地になります。
水は高い所から低い所に流れます。手前側の水流は上の写真を撮影した際、確認しました。もう一方の水流は想像で小さな山を避け、無苦庵方向に流れていくはずです。小さな山の位置に前田慶次供養塔があります。
赤い点が木が生い茂る場所を撮影した地点(二つ上の写真)で、四角い点線は無苦庵跡地だと勝手に思い込んでいる敷地です。
最後に米沢駅南側に宮坂考古館という上杉家や前田慶次などの知る人ぞ知る甲冑が収蔵、展示されている所へ寄ってきました。やっぱりメジャーではない通な甲冑が収蔵されており直江兼続公というと「愛の字」だけを思い浮かべるところですが「浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足」という兼続公らしい渋めの甲冑や上杉景勝公の甲冑も収蔵されています。個人的にはこっち系の方が好きなんですけどね。
期間によって展示内容があるみたいなので、ちょくちょく見に行かないとなりません
前田慶次所用というと「花の慶次」の漫画でもっとかっこいいと想像されていた方も多いのではないでしょうか?
胴部分と草摺部分が2本の糸で繋がれる素懸式と飾り気のない笠式の兜は戦場を縦横無尽に駆け巡る慶次公ならではの動きやすさを重視し、籠手(腕)は鉄の鎖繋(くさり)で守装備も完璧に見えました。肩当のうろこ形は材質もわかりませんが珍しいデザインでした。
当時変わった形の甲冑を制作するには財政豊かな武将でないと甲冑デザインできないと聞いた事があります。逆にリーズナブルな既製品甲冑もあったらしいですよ。
7.8年前、前田慶次公にのめり込んで甲冑が見たくてネットで調べ電話を掛け続け、一時的に保管されている方にお願いして、あるお屋敷みたいな所に前田慶次公の甲冑を見に行った事があります。
それは明治から昭和にかけて活躍された金沢出身の小説家、有名な泉鏡花先生旧蔵の前田慶次公赤糸威具足だったと記憶しています。(たぶん) 現在の収蔵先は知りませんが、まったく展示がないという事は個人蔵だったのかもしれません。
写真は撮らせてはもらえなかったので(当たり前)、すぐ家へ帰ってスケッチしたものです。
それは格好良く兜は朱塗りで前立に獅子噛(獅子の顔)が付きウサギの耳のような角が獅子噛から左右に斜めに配置され、腕も朱色の鉄製鎖繋で胴から佩楯(足を守る箇所)まで朱色の糸威しで統一され、シンプルで躍動感があり若さを感じる甲冑でした。
上の宮坂考古館所蔵の甲冑は慶次公が40代から50代ぐらいに着用した鎧ではないでしょうか?5,6年前に見たものは前田利家に従って戦場に行った若い頃の慶次公だと勝手に想いこんでいますが。
隆慶一郎さんの『一夢庵風流記』や『花の慶次』が小説であって、ある程度肉付けしてあるのはわかっていますが、この緑、水、土地などの風景を見て慶次郎へのイメージは膨らむばかりでした。
子供の頃から名古屋、金沢、京都のような都から、どんな想いでこの場所に腰を据える事にしたのだろうか?直江兼続に誘われてか、追いかけてか?
あの愛馬『松風』もこの米澤に来て、いっしょに慶次清水のおいしい水をたらふく飲んでいたのだろうか?
慶次郎の人柄からすると、近所のじいさん達と囲碁か将棋でも打って、孫のめんどうをみて刀いらずの生活だったのだろうか。
もしかしたら叔父の利家公も上杉家訪問のあと、ちょっと立ち寄って昔話の一つでもしたものか?
などなど。この土地にいればいるほど、漫画と重ねて考えてしまう。前田慶次郎という男が好きなだけに、あまりにも漫画、パチンコで人気が出てしまい、ちょっとブームが静かになったところでHPで旅報告した次第です。流行がきらいなんですよ。慶次郎の甲冑なんか企画したいけど、全貌が明らかになるまで手は出さない。イメージで作ったら慶次郎に失礼だから。
もし、映画の『戦国自衛隊』のようなタイムスリップできるのなら、絶対1599年ですね!信長公はいないけど、ほとんどのスターはいますからね。慶次郎と周りの関係もわかるしね。すごく話が飛んで申し訳ありませんが、このページでは私が『隠れ慶次郎ファン』だとわかってもらえれば幸いです。
次回は伊達政宗公で仙台博物館の話をしますね!