信楽焼五月人形

行ってきました。節句の旅

山形県米沢市

 

富山インターを出発して北陸自動車道を北上し、新潟JCTまでおよそ3時間。北陸自動車道から磐越自動車道を1時間ちょっと走ると会津若松ICを降り、121号線を北上、ラーメンで有名な喜多方を通り米沢に着きます。(富山から5時間)

天地人


天地人のタイトルは上杉謙信の言葉から天の時、地の利に叶い、人の和ともに整いたる大将から名付けたそうです。(館内で見つけました。)

巌なぜ、毘と龍なの?

 

上杉謙信公は仏教の守護神、天部様の毘沙門天を人間像として毘沙門天をこよなく信仰していたため、毘沙門の「毘」を軍旗に取り入れたようです。

 

「龍」ははっきり言ってわかりません。ただ「毘」と「龍」の書体が違うと思いませんか?「龍」は草書のように崩して書いてあります。これに意味があると思うのですが目からうろこのような解説が見当たりません。よく「越後の龍」「越後の虎」両方言われてますよね?また、調べておきます。

 

※稽照殿は館内、写真禁止なのでレプリカの写真を使用させて頂いています。上杉神社のホームページや「稽照殿」と検索すれば稽照殿の拝観券の写真を読み取った画像がご覧になれると思います。

 

 

 

決闘の地 巌流島

上杉謙信銅像 昨年、車で九州までの旅(No,3 No,4)に行ってきたので、この頃 日本が小さく感じ、調子付いたところで今回は大河ドラマ『天地人』で世間を騒がしている上杉神社のある山形県米沢市に行ってきました。

 

夏休みだったのでたくさんの人で天地人博の会場では「あっ兼続だ」「謙信かっこいい」と若い女性の声が館内に響き、ちまたでは『歴女』という歴史好きな若い女性まで増えてきているそうです。何年か前は業界の人間か歴史好きな男性しか見なかったのに戦国ゲーム(登場人物かっこ良すぎる)の影響でこうも変わるとは。キャリアを活かして歴女に負けないように日本を駆け巡るぞ!

伝国の杜(上杉博物館)

 

          天地人博が開催されている会場です。

伝国の杜(上杉博物館)

このでっかい建物が天地人博が開催されている会場で上杉神社から徒歩約5分のところにあります。写真、右手前側が上杉神社。

伝国の杜(上杉博物館)には大河ドラマの俳優さん関係の展示や戦国シアター上映がメインでした。唯一目をみはる物と言えば、織田信長から上杉謙信へ贈られた「上杉本洛中洛外図屏風」ぐらいで天地人博が終わると何を展示するのか興味深いです。

 

中央の白い通路を手前に歩くとお土産屋や屋台が両端に並んでいて活気があり、米沢牛の串焼きが1000円でしたけど、柔らかくすごくおいしかったです。屋台を通りぬけると駐車場があります。天地人博は平成22年1月11日で終了します。

上杉神社参道入口


上杉神社参道入口

上杉博物館側からも入れますが、謙信公に失礼なので参道正面から参ります。道の両側に『毘』の軍旗と『龍』の軍旗が掲げられ神社に入る前から「威風堂々」

背筋が伸び、張りつめるような空気が感じられました。

上杉謙信公像 上杉謙信公像

 

参道を入ってすぐ右側に上杉謙信公之像があります。石垣の上にどっしりと腰をおろし、胴丸甲冑の上に陣羽織を羽織り 頭には兜ではなく角帽子をかぶった姿です。

 

右手には軍配、左手には打ち刀を持っておられ陣幕の中での軍の指揮をとっておられる像でした。

 

よく歴史の本に出てくる肖像画でも袈裟姿で首に絡子 (らくす)をし、仏経の僧侶の衣装をしてますよね。

上杉謙信公祠堂跡(しどうあと)上杉謙信公祠堂跡(しどうあと)

 

1578年 遠征の準備中に越後春日山城で倒れ享年49才で亡くなられました。謙信公の遺骸に甲冑を着せ、龜(人間が入るぐらいの大きいつぼ)に納め漆で密閉したらしいです。

 

亡くなられた春日山城内(新潟県上越市)の不識院に埋葬されましたが、謙信公の跡継ぎの上杉景勝公の時、会津120万石(入封)米沢30万石(移封)によって、上杉神社内の見晴らしのいい高台のこの場所(写真右)に謙信公の遺骸を移し御堂を建て安置しました。

 

明治6年に米沢城全てが破却のため、明治9年に歴代藩主が眠る上杉家廟所に移されました。(上杉神社から西に1.5km)これで三回も移っていますので謙信公にはゆっくりと眠って頂きたいと上杉神社本殿にてお参りしてきました。(下に写真あり)

稽照殿横の庭園

稽照殿横の庭園

上杉神社稽照殿上杉神社稽照殿

 

いつも何気なく重要文化財を見学しているが、上杉家が米沢に移って、初代上杉景勝公から13代 上杉 茂憲公までの先祖様の遺品をよく400年も火事(1919年に大火事)、盗難にも遭わず、戦争にも無事で甲冑、武具、刀剣、絵画、書跡など1000点も収蔵されているとは甲冑ファンとして敬意を表したいと思います。

金小札浅葱二枚銅具足金小札浅葱二枚銅具足

 

驚きでした。「瑞雲に現れる愛の字」は思ったより大きかったですねぇ!しかし軽量化で薄くしてあり鍍金はキレイでした。さすが雲の上の愛染明王を象ったすごい前立です。私は甲冑を見る時に身長や体つきを想像して見るのが楽しく、兼続公は推定170cmぐらいはあったのではないかと思います。

 

下半身を守る草摺も初めて見るもので裾の毛は多分、熊の毛に間違いないですね。正式名称の二枚胴は左脇に蝶番で右脇の紐を緩めて脱着する前後2枚に分かれた胴の形式です。

色々威腹巻色々威腹巻

 

謙信公の甲冑の見所はまず前立です。剣と縄を持つ烏天狗が白きつねに乗って火術を使うという飯縄山(飯綱山)にまつわる神仏習合の神の前立です。飯綱権現というらしい。

次に兜のしころ(兜の横から後にかけての傘みたい部分)が兼続公もいっしょだが二段しころになっている点です。首廻りをがっちりガードでき、めずらしい造りです。
三つ目は腹巻といって胴の背中側がまっぷたつに分かれる造りで、以外と着用しやすい造りでウエストがキュッと絞ってある感じがカッコ良かったです

上杉神社本殿(米沢城跡)上杉神社本殿(米沢城跡)

 

明治6年(1873年)には「米沢城の建物が全て破却された」と歴史上なっているが『破却』は辞書では「原形をとどめないように、すっかりこわすこと」と記載されているが火事ではないとすると・・無惨な話です。

 

1876年に上杉神社を現在の場所である本丸跡に移したのですが、1919年に米沢市内は炎に包まれ、この本殿も入れて全焼したそうです。

1923年に地元の伊東 忠太さんていう有名な建築家が上杉神社社殿を再建となりました。小さいですがヒノキ造りの本殿は立派でした。ちなみにあの有名な伊達政宗公もこの米沢城で産声をあげました。

上杉公園祠堂跡上杉家の人達

 

春日山節でも歌われる「戦するなら謙信公のように敵も情けに泣くような・・・」と義理人情があり、あらゆる人々に平等に友情をもつ心は観音菩薩を信仰する母のもとで仏の修行を積んだ幼少時代に養われたものと聞きました。

 

その心が謙信公から上杉景勝公そして直江兼続公まで受継がれたと思います。誰も逆らえない家康の度重なる上洛要求も拒み、堂々たる態度が見受けられる『直江状』 川中島の戦友の武田信玄は息子の勝頼に「困った時は越後の上杉謙信を頼る事」と遺言にある。

 

そして景勝公は120万石から30万石に減封されても120万石の時の家臣をほとんど解雇しなかった。1664年にも更に15万石の減封の時も藩士の解雇が行われずに農業で窮地を脱するなど上杉家の人達は義理固い人情味あふれる逸話ばかりです。(上杉博物館で知りました)

 

甲冑がお目当ての旅でしたが、今の厳しい時代で心だけでも上杉魂をもって乗り越えていかなければと思わせる価値ある旅でした。